主演は、ハリソン・フォードとジュリア・オーモンド。
ベテラン男優と新人女優をからませ、新しい『サブリナ』をつくろうとしたのだが、
いかんせん、オーモンドではヘプバーンの当たり役は荷が重すぎた。
フォードに焦点をあてた話につくりかえはしたものの、ヒロインに輝くような
オーラがないのが致命的だった。
結局、この映画は たいして評判にもならずに終わってしまった。
リメイク版では、舞台を現代に置き換えたのがひとつのミソになっている。
そこでたとえば、堅物の実業家とそのお抱え運転手の娘サブリナのデートの
シーンでも、次のようなスケールアップがなされる。
オリジナルの『麗しのサブリナ』では、二人はニューヨーク州ロングアイランドの
沖合いでボートに乗ってのんびりと舟遊びを楽しむのだが、
現代版『サブリナ』ではMマサチューセッツ州南東部の高級避暑地、
マーサズ・ヴィンヤード島の別荘まで自家用ジェット機で一気に飛び立つので
ある。このマーサズ・ヴィンヤード島は実在する。
『サブリナ』からもわかるように、一般にはお金持ちの避暑地として知られている。
映画好きナラ、スティーブン・スピルバーグ監督の出世作『ジョーズ』
(1975年)のロケ地として記憶しているかも知れない。
避暑地となる前、まだアメリカで捕鯨が盛んだった19世紀には、捕鯨基地として
知られていた。ハーマン・メルヴィルの小説『白鯨』にも島の名前は顔を出す。
お金持ちや有名人の避暑地で、かつて捕鯨基地としてさかえた島・・・・
これが平均的なアメリカ人がマーサズ・ヴィンヤード島に対して抱く
イメージである。
しかし、この島はアメリカのろう者(以下、手話を日常的なコミュニケーションの
手段とする聴覚障害者を「ろう者」と呼ぶことにする)には、
また別の特別な意味がある。
じつは、マーサズ・ヴィンヤード島は、今から50年くらいまで、
「みんなが手話で話した島」だったのである。
ことの起こりは17世紀に遡る。
島の初期入植者の一群が劣性の聴覚障害遺伝子の保因者で、彼らは
隔離された共同体に定住し、近親交配を繰り返したため、その後およそ
200年にわたり、高い割合でろう者が生まれる事になった。
中には4人に1人がろう者である村もあった。
隔離された場所で多数のろう者がかたまって暮らしていというだけなら、
ほかにも類例がないわけではない。
マーサズ・ヴィンヤード島がユニークなのは、周りの健聴者もこうした状況に
社会的に適応してしまったことである。
この島では、健聴者も幼児期に自然に手話を身につけ、日常生活の中で
当然のように手話を用いていた。
島の健聴者は、ろう者を「障害者」や「ろう者」として意識することさえ
なかった。ジェディダイアは、あくまでもジェディダイアだった。
ナサニエルは、あくまでもナサニエルだった。
「ろう者」のジェディダイアや「ろう者」のナサニエルは、
ほとんど意識されなかったのである。
19世紀の後半からアメリカ本土との交流がさかんになり、
近親交配の機会が減るにつれ、遺伝性のろう者の数も減少していった。
そして、1952年には、その最後のひとりがこの世を去る事になる。
かつて、マーサズ・ヴィンヤード島では、ろう者の完全な社会参加が実現していた。
以下、文化人類学者ノーラ・エレン・グロースの『みんなが手話で話した島』
築地書館)をもとにして、このこの島がどのようにろう者に適応していたのか
具体的に見てみることにしよう。
この適応は、障害者がほとんど顧みられなかった時代に起こったのである。
・島民は本土の人間とちがって、ことさらにろう者を特別あつかいしようとは
しなかった。大半の島民は、本土にも島と同じくらいの割合のろう者がいて、
島と同じようにあつかわれていると信じていた。
・島民は聴覚障害を「ときに、ひょこっと顔をのぞかせるもの」くらいにしか
考えていなかった。ろう者の親となるかどうかはまったくの運まかせで、
ろう児の誕生は大きな不幸というより小さな問題とみなされた。
・ろう者自身は、自分の障害を耐え難い苦しみというより、ちょっとした
やっかい事と考えていた。
・どの社会でもそうであるように、島でも対立やいさかいがあった。
たがいに激しくののしりあうこともあった。ただそうしたときでも、
この島では手話が用いられていた。
・島民はきちんとした手話の手ほどきを受けたのではなく、大半は幼児きに
見よう見まねで手話を覚えた。肉親にろう者を持たない健聴児も、親と一緒に
知り合いの家や雑貨店にでかけ、まわりで使われている手話を見てそれを
自然に身につけた。
・子どもは、ろうの遊び友達と話すためだけでなく、大人のろう者と話すため
にも手話が必要だった。
・手話を知っていて知らないふりをすることは、たとえ子どもでも許されなかった。
・手話は日常生活のあらゆる場面で用いられていた。家庭、雑貨店、教会など、
人の集まる場所で、ろう者が話に加われず孤立することはなかった。
・誰もが手話に堪能だったため、日常生活で手話通訳はほとんど不要だった。
・島の健聴者は、ろう者がその場にいないときでも、学校や教会など、
声を出すのがはばかられる場所で手話を使うことがあった。
たがいに船に乗っていて、離れていて声が届かないときなど、健聴者同士で
手話を使うこともあった。
・島では、ろう者の方が健聴者より教育水準が高かった。これは、ろう者は
州政府からの補助金で学校に通うことができたからである。健聴者のなかには、
ろう者のところにいって新聞記事や法律文書の意味をたずねる者もいた。
・島では、ろう者と健聴者の結婚率に差はなかった。
・島のろう者は、結婚相手をろう者からでも健聴者からでも自由に選ぶことが
できた。ろう者と健聴者の結婚の方が多く、ろう者同士の結婚は全体の3分の1
程度だった。(今日のアメリカでも8割がろう者同士の結婚である)。
・島のろう者は比較的早婚で、離婚や再婚も多かった。
・島では、ろう者は健聴者と同じように漁業や牧畜をいとなむことが多かった。
これは、本土のろう者がやむなく割の合わない仕事に甘んじていたことと
好対照をなしている。
・島のろう者は、島の健聴者とまったく同じように、裕福な者もいれば
貧しい者もいた。
・島では、ろう者の政治参加が認められていた。ろう者は教育委員界の委員に
任命されるなど、地域の政治に深くかかわっていた。
・ろう者は、民兵としての登録もおこなっていた。ろう者であっても、
土地の購入や契約書の署名をすることができたし、本人名義の供託や遺書を
作成することができた。
このようなマーサズ・ヴィンヤード島の適応は、「障害者」の可能性を限定して
とらえる人には、にわかに信じられないことかもしれない。
しかし、聞こえないという肉体的な「障害」(能力の不全)はなくすことが
できないにしても、聞こえないことによって生じる社会的「障害」(不利益)は、
周囲の対応次第でなくすこともできるのである。
マーサズ・ヴィンヤード島で見られたことは、このことをはっきりと裏づけている。
最初にこの原稿を依頼されたとき、ボランティアに興味を持つ若い女性に対して
聴覚障害者の立場から何か参考になることを書いて欲しいといわれた
(筆者は、身体障害者手帳2級の聴覚障害者である)。しかしここでは、
ろう者と接するにあたっての一般的心構えのような事ではなくて、「ろう者」と
「健聴者」のかなり理想的な関係を、現実にあったこととして、あらかじめ
書いてしまうことにした。そこから振り返って、自分がどうすればよいのかを
考えてみるのも、ひとつの方法として「あり」だと思うからである。
マーサズ・ヴィンヤード島は、ろう者にとって夢の島だといった人がいる。
しかし、この島で起こったことは現実の出来事である。
ここまで読んでくれた人が、こんなことも実際にあったのだという事から、
なにかを感じとってくれれば幸いである。
◎参考文献
『みんなが手話で話した島』築地書館
『手話の世界へ』 晶文社